学習塾の授業で最も教えるのが難しいのが、実は国語という教科です。多くの塾では国語の授業は希望者のみのいわゆるオプション授業として扱われています。また、実際の授業内容も選択肢の選び方や、接続詞の穴埋めなど問題を解くテクニックだけを教えることが非常に多いのです。それは、多くの塾が国語の授業で何を教えれば良いかというノウハウを持っていないからです。テクニック重視の授業はあくまでも「入試のための勉強」であり、子どもたちの将来にわたって役立つような能力を引き出すことはできません。
クセジュは創立以来、すべての学年で一貫して国語の授業を必修としてきました。授業では受験生になるまで問題演習は一切扱いません。中学2年生までは1つの作品を1ヶ月から2ヶ月かけてじっくりと読んでいくのがクセジュのスタイルです。また、国語科の講師が扱う文章に合わせて作成した、全問記述式のオリジナル設問を活用しながら授業を進めています。
たとえば、小学生では坂本竜馬の伝記を読みながら幕末の歴史まで学び、竜馬が生きた時代がいかに激動に時代であったかを実感することで、子どもたちもより臨場感を持って作品にのめりこんで読めるようにしています。中学生では夏目漱石の「こころ」を読みながら、当時の日本が抱えていた問題点を漱石がどのように指摘していたのか、漱石の指摘が現代の日本が抱える問題のどこに当てはまっているのかなどを考えたりしています。
このような指導は一見、遠回りに思えるかもしれません。しかし、作品自体をじっくりと味わい感動する経験、ひとつひとつの言葉や表現の意味を考えながら読む経験、作品を読んで自分が感じたことや考えたことを自分の言葉で表現して伝えるという経験は、国語のみならず他の教科への興味と関心に結びつくのです。クセジュの生徒が入試においても成功しているのは、国語の授業を通じて広げた教養と洗練された思考力・記述力が大きく影響しているのは間違いありません。
「生徒がもっと考えたくなる授業」それがクセジュ数学科の目指すものです。まず手を動かしながら試行錯誤することが数学力を高める最良の方法ですが、それこそが難しいのだという人もいるでしょう。ですから前段階として「考えたい、もっと知りたい」という好奇心を持つことが肝心なのです。そこでクセジュの数学では、各単元の導入に際し教科書には書かれていない数学のドラマを物語るところからスタートします。普通の数学の教科書と言えば、まず各単元の定理が載っていて、次に例題や練習問題が載っているといういたってシンプルな構成のものがほとんどです。正直、これでは数学という学問に魅力を感じるのは難しいでしょう。そこへそれぞれの定理の裏にある数々のドラマを加えてみます。古代エジプト人が考えた図形問題、アルキメデスが研究した円についてのお話、デカルトによる座標の発見と科学の進歩…。数学の定理の裏には実は数多くの数学者や科学者達の熱いヒューマンドラマがあるのです。
このような背景を知れば、単なる公式に命が吹き込まれます。そして問題が解ける・解けないという狭い価値観を脱し、考えること自体に意義を見出せるようになるのです。生徒たちが考えることを厭わなくなれば、あとはとことん深めていくだけです。何故その定理が成り立つのか?例外はないのか?時には一つの問題だけで50分の授業が終ることもあります。一見非効率な方法に見えそうですが、数多くの問題を解くことよりも一つの問題を深くじっくりと考えることの方が最終的には高い数学力につながるのです。それは入試対策だけにとどまらない様々な場面で役立ちます。
単に問題が解けるだけではなく、その背景となる定理の成り立ちまでをも理解すること。そして数や図形の性質そのものに美しさや魅力を感じる感性を持つこと。それが我々の考える数学力なのです。クセジュ数学科の授業で、是非本物の数学に触れてください。
クセジュの英語で一番こだわっていること。それは「考え、発見する」感動や喜びを、英語を通してどう生徒に体感してもらうかです。そればかりを考えて、私たちは日々授業をしています。例えば、中学校や多くの塾では「助動詞willとbe going to~は同じ意味だから覚えておきなさい!」と教えます。ところが、英語圏の国々ではこの2つの表現を状況に合わせて使い分けます。「ではどのような状況で、この2つの表現を使い分けるのか?」という視点からwillとbe going to~について学んでいこう!──クセジュの英語では「まず考える」ところからアプローチするのです。何の面白味も感じない状態で英語をただ暗記させるのではなく、「英語圏ではこうやって英語を使うんだね!」「英単語1つにもそんな歴史が隠されていたんだ!」と、まずは生徒に「感動」を提供する。そこで初めて「もっと英語を知りたい!勉強したい!」という知的好奇心が芽生え、生徒は主体的に英語を勉強するようになるわけです。クセジュの生徒が高校入試で圧倒的な強さを発揮する理由はここにあります。
●中1の授業例● 生徒A「先生!なぜ現在進行形の文には動詞が2つあるの?」 生徒B「ホントだ。He is running now.って文にはbe動詞のisと一般動詞のrunningがある。1つの文には動詞は1つじゃなかったの!?」 講 師「い〜〜質問してくれた!実はね、その文には動詞が1つしかないんだよ」 生徒A「どういうこと?どちらかは動詞じゃないってこと?」 講 師「Yes!動詞じゃないのはrunningだ。これはingがつくともう別の働きに変わるんだ。よく普通の会話でもランニングって言葉使うけど、それって‘走る’っていう動詞としてでなく‘走ること’っていう名詞として使わない?」 生徒B「そうか、確かにランニング‘してくる’みたいな使い方するからランニング自体には動詞の働きはないってことか」 講 師「そう!ingがつくと名詞や形容詞の働きになるんだ。つまり走ることや走っている状態を表す。ところでもともとbe動詞ってどういうことを表す時に使う?」 生徒B「動詞だから動きでしょ」 生徒A「違うよ。動きを表すのが一般動詞で、事実とか状態とかを表すんじゃなかったっけ?」 講 師「そうだね。My father is kind.っていう文があるとして、これは動きというより‘優しい’という性質とか状態のようなものを表現しているわけだ」 生徒B「そうか!だからrunningっていう走っている状態を表すためにはむしろbe動詞を使うしかないのか」 講 師「この動詞+ingの形は現在分詞というんだけど、実際には中3で理解すべき項目なんだ。よく理解したじゃない!」
普通、中1の授業では「現在進行形はbe動詞+〜ingと覚えなさい」というふうに習いますが、クセジュの授業では時に上位学年で扱う内容にも触れ、根本の構造から理解することに重きを置いています。
「実験‘は’好き」―理科について小中学生が言うお決まりの言葉です。これを聞くたびに私は寂しい気持ちになります。要するに「実験は好きだけど、自分で考えたり問題を解くのは嫌い!」ということだからです。昨今は実験教室なるものが乱立していますが、その多くは物珍しさやインパクトのみを売りとした安易なものばかりです。その実験を行う必然性や、その先の勉強につながる示唆を含んでいないわけです。その場で楽しむだけで終わってしまっては、下手をすると逆効果になりかねません。
『疑う力』―クセジュの理科で一番育てたい力です。科学の歴史は常識を疑うことの歴史そのものと言っても過言ではありません。事実、天動説や四元素説など現代人にとって事実とはかけ離れた考え方も、その時代においては常識だったわけです。こういった当たり前に思われていること、それを覆すのに想像を絶する研究と犠牲があったはずです。しかしそれを成し遂げた背景には、やはり疑う力があったからに他なりません。
私たちもこのような力を生徒につけさせたいのです。ですから授業では「ドライアイスは液体になることはないのか」「氷が溶けたら水位は上がるのか」こういった日常にありふれた現象にこそ目を向け、「本当にそうか?」という出発点‘疑問’を大切にします。そして生徒自身がまずは考察し、互いに議論する過程そのものを楽しむ仕掛けを講師が用意します。その中で必要に迫られて実験を行うのです。つまり実験ありきではなく、疑問→議論→検証という正攻法の流れの中で理科を好きにさせていくのです。
このようなきっかけを多く与えるため、指導要領以外のテーマを扱うこともあります。得意教科発展講座(無料)にて「相対性理論入門」「免疫学」など様々な講座を実施していますが、生徒たちにはとても好評です。こういった正攻法の営みの先に、理社にも圧倒的に強いクセジュがあると自負しています。
私たちの身近な生活が実は何百年、何千年の歴史の積み重ねの上に存在することを実感できたとき、私たちはそのスケールの大きさに魅了されます。私たちがいつも当たり前のように腰かけている椅子。この椅子も日本に最初から存在したわけではありません。ではいつ入ってきたのか。では、なぜ日本人はもともと椅子を使っていなかったのか。ここから歴史と地理の勉強は始まるのです。物事がつながっていく喜び。そして、つながった物事が世界を覆い尽くす巨大な知の体系となる喜び、これを「分かりやすく」「楽しく」伝えること。それがクセジュ社会の理念です。
社会科という教科は、一般的には「ひたすら暗記する」教科だと思われがちです。しかし、実際には社会ほど「考える」ことが重要な教科はありません。私たちの生きるこの世界の姿を学ぶ地理、私たちの現在の状況を作り上げた時間の流れである歴史、そして、私たちの生きる現代社会の仕組みそのものを学ぶ公民。つまり、私たちの世界全てを学ぶことが社会なのです。これほど並外れて大きく複雑なテーマはなく、ひたすら知識を覚えようとしてもキリがありませんし、そうすることの意味自体ないのです。大切なのは様々な知識の背後にある法則や流れを見つけること。本来はバラバラに存在する知識のパーツを一つの流れに従って配置しなおすことこそ、まさに考えることであり、学ぶことなのです。
ですから授業では「なぜ」を徹底的に重視します。しかしこれは簡単なことではありません。普通ならば当たり前すぎて疑問に思えないような部分にも重要な「なぜ」が隠されているからです。近年難化の一途をたどる高校入試でも、難解な記述問題の多くは‘常識だと思われていること’への問いかけです。クセジュ生がそういう記述問題に強いのも、社会を暗記教科としてではなく思考する学問として捉えているからなのです。














