世の中には実に数多くの学習塾、予備校がある。そしてそれらのどれもが「合格実績」やら「めんどう見」「個別指導」など自塾の「売り」を掲げ生徒獲得のための宣伝合戦をくり広げている。
これら林立する塾、予備校の宣伝文句を見つめながら一体何を基準に決めたら良いのか多くの親、生徒は迷うのではないだろうか。
少子化の影響もあり、最近は一昔前の塾ブームの時のように「どこでも良いから近くの塾にでも行かせておけばいいや」という安易な選択は影をひそめ、様々な塾のパンフレットを集め比較したり体験授業に参加したりと慎重に行動する人が増えている。そのこと自体は喜ばしいことである。
しかしそれでも塾選びには困難が伴う。何故ならその塾が子どもにとって良いかどうかは結局のところ通ってみないと分からないからだ。
例えば授業料が比較的安価だと思って入ったら、補習だの特別講座だの個別指導だのと様々な名目で別料金を請求され、結局高くつく例が後を絶たない。
これほど悪質でないにしても「めんどう見」をうたい文句にする塾が、質問も受け付けず塾での子どもの様子もほとんど親に連絡しないことも珍しくない。
また塾の提供するサービスが学習指導という「教育」である以上、必ずしも短期的に効果が表れないという事情も問題を複雑にしている。
さらに塾選びを難しくしている原因として実はもう一つ大きな問題がからんでいる。それは社会が求める「有用な人間像」の変化とそれに伴う高校入試・大学入試問題の質的変化である。この変化は90年代から徐々に始まり21世紀に入って今や完全に定着したにもかかわらず多くの親は気づいていないように見える。
この変化は従来の学力観そのものを根底からくつがえすほどの大変化である。
具体的に言おう。今や東京大学をはじめとする国立大学の大半と難関といわれる高校において入試問題はほとんどが記述であり論述問題である。ここで問われているのは単なる知識の量ではない。どれだけ深く考えその考えたことを的確に表現できるか。すなわち思考の幅と表現力が問われている。
さらに実例をあげるなら、数学においては定理や公理の証明が問われ、英語においては文法問題はなくなり長文読解や作文が中心であり、国語はテーマに沿って考えを記述させる等。また科目間の枠が取り払われ融合的な問題も益々増える傾向にある。
要するにただ覚えるだけの丸暗記は通用しない。日頃から興味関心をもって丹念に調べたり書いたりという姿勢が欠かせない。
もちろんこの背景には社会的要請がある。今の時代ちょっとした知識ならインターネットなどで調べれば分かる。量的にどれだけ知っているかは人間の価値をただちに高めない。それより、企業でも大学でも研究機関でも必要なのは独創性や付加価値といった人間にしかできない能力であり、新しい企画やそれをプレゼンテーションする能力である。
話を予備校・塾に戻そう。このように問われる学力の質が変わっているのに大半の塾(学校も)では相変わらず「つめこみ式」の暗記型授業を行っている。これは極めて危険なことと言える。何故なら「つめこみ丸暗記」の学習指導を受けた子どもたちは記述式の問題に対応できなくなるからである。もっと悪いことに、勉強を無味乾燥の面白くないものと思いこむことで将来に渡って「学び続ける」意欲を失くすことである。
確かに現在でも一部の私立中学・高校受験では昔ながらの知識偏重の難問を出すところもあるし、学校の定期テストなども「覚えれば出来る」式が多い。親の中にも塾に対して「目先の点数」を上げてもらえば良いと考える人も多い。
最近、学校の定期テスト対策を売りにする塾が増えているのも、それを望む生徒や親が多いことの反映でもあると思う。
進学塾か補習塾か。大規模塾か個人塾か。個別指導塾か全体授業の塾か・・・といった塾の選択法は既に古い。むしろ目先の点数を上げることが売りか、それとも長期的な展望に立った学習指導なのか、言い換えれば明確な教育信念の有無こそが基準となるべきではないか。
そして選ぶ側の親自身が、子どもの教育に何を期待しているのかを自覚してはじめて選ぶべき塾の姿も明確になるのではないだろうか。
塾選びで失敗しないためにこの小冊子が少しでも参考になればと思う。
管野淳一
第一章勉強させる塾か、遊ばせるだけの塾かを見分ける法
2010年7月23日更新なんとなく通うだけでは成績は上がらない
首都圏では現在中学生の80%以上、小学生の50%以上が塾に通っている。この数字は景気の好不況によって多少の変動はあるが、この数十年基本的に変わらない。背景に「学校だけでは不安」という親の気持ちがある。実際いまの小中学校では教える内容や教材の質量はともに大幅に低下している。
しかも全体に学力が低下しているので学校の成績はマアマアでも、自分の学力がないことに気づかない。
ところで塾に行けば本当に学力はつくのだろうか。残念だが実は塾に通っている生徒の8割は学力が上がっていない。つまり塾に行ったおかげで成績が伸び、学力がついたと実感できる生徒は20%程度。5人に1人の割合である。5人に1人は成績が上がるのならいいと思う人もいるかもしれないが、これは大体の数字であり、塾によっては行っても全然上がらないか、むしろ下がる生徒の方が多かったりする。
どうしてこういうことになるのか。原因は二つあって、一つは生徒・親の側の問題。あと一つは塾側の姿勢の問題である。
まず生徒・親の問題から話すと、背景に塾通いの大衆化という問題がある。先にも言ったが中学生の80%以上が塾に通っている。塾に行っていない子の方が少数派なのだ。そして小中学生の場合、あまり遠くの塾に行くことはない。だから当然その地域にある塾は同じ学校の生徒も多い。その結果塾によっては顔見知りばかりということになる。
特に大手塾を選ぶ子は「友人が行っている」という理由で入るケースが圧倒的だ。結果、塾へ行っても「学校の延長」と化し、そこには勉強するのだという緊張感が欠如している。
今の子どもたちは勉強したくて塾に行くわけではない。「皆が行っている」から、自分だけ行かないと遅れてしまう気がして行く子が多いと思う。だからこういう子たちは知り合いがたくさんいる塾へ行くのである。
このように肝心の塾へ行く動機が勉強そのものではなく、安心を得たいためという子が大部分である以上、学力など身につくはずがないのである。子どもまかせは無責任と言える。
首都圏では現在中学生の80%以上、小学生の50%以上が塾に通っている。この数字は景気の好不況によって多少の変動はあるが、この数十年基本的に変わらない。背景に「学校だけでは不安」という親の気持ちがある。実際いまの小中学校では教える内容や教材の質量はともに大幅に低下している。
しかも全体に学力が低下しているので学校の成績はマアマアでも、自分の学力がないことに気づかない。
ところで塾に行けば本当に学力はつくのだろうか。残念だが実は塾に通っている生徒の8割は学力が上がっていない。つまり塾に行ったおかげで成績が伸び、学力がついたと実感できる生徒は20%程度。5人に1人の割合である。
5人に1人は成績が上がるのならいいと思う人もいるかもしれないが、これは大体の数字であり、塾によっては行っても全然上がらないか、むしろ下がる生徒の方が多かったりする。
どうしてこういうことになるのか。原因は二つあって、一つは生徒・親の側の問題。あと一つは塾側の姿勢の問題である。
まず生徒・親の問題から話すと、背景に塾通いの大衆化という問題がある。先にも言ったが中学生の80%以上が塾に通っている。塾に行っていない子の方が少数派なのだ。そして小中学生の場合、あまり遠くの塾に行くことはない。だから当然その地域にある塾は同じ学校の生徒も多い。その結果塾によっては顔見知りばかりということになる。
特に大手塾を選ぶ子は「友人が行っている」という理由で入るケースが圧倒的だ。結果、塾へ行っても「学校の延長」と化し、そこには勉強するのだという緊張感が欠如している。
今の子どもたちは勉強したくて塾に行くわけではない。「皆が行っている」から、自分だけ行かないと遅れてしまう気がして行く子が多いと思う。だからこういう子たちは知り合いがたくさんいる塾へ行くのである。
このように肝心の塾へ行く動機が勉強そのものではなく、安心を得たいためという子が大部分である以上、学力など身につくはずがないのである。子どもまかせは無責任と言える。
塾に行っても成績が上がらないのは親にも責任がある
私たちはこのような生徒を「なんとなく組」と呼ぶが、「なんとなく組」は親にも責任がある。「なんとなく組」の親は、塾に通わせようと考えながら塾を訪問せず、塾えらびを子どもに任せてしまう。こういう親は大抵「家は子どもに任せていますので…」と言う。要するに子どもの自主性を尊重し、子どもの尻をひっぱたいてまで勉強をつめこませるような親ではないと言いたいのだろう。
だから塾の情報収集をすることで自らの手を汚したくないと考えている。その結果、年間30万から50万の授業料をドブに捨てるのである。
現在多くの塾は、親の期待に反して「遊び場」と化している。確かに違う学校の子と塾で友達になったり、情報交換をしたり、昔と違って遊ぶ場や時間の少なくなった今の子どもたちにとって塾が一種の「社交の場」になっている側面は必ずしも悪いとは言えない。
しかしそれは一生懸命勉強した結果として得られるべきものである。「初めに遊びありき」では本末転倒で、当然「学力」はつかない。
「社交場」と化している塾は大手に限らない。むしろ小規模な塾ほど緊張感に欠けていることが多い。個人塾に代表される小規模塾のメリットはクラスの人数も少なく融通が利くところにあるが、それがかえって先生と生徒の馴れ合いを生む原因にもなっている。
さらに小規模塾にありがちだが、教室がほとんど丸ごと同じ学校の生徒に占められていたりすると、よほど指導力のある塾でない限り学校の放課後のようになり勉強どころでなくなる。ひどいところになると授業中でも生徒が私語をやめず、途中で抜け出す、友人同士帰りにコンビニなどで遊ぶなど崩壊状態に陥っているところもある。管理不在の塾である。住宅街などにはこの種の塾が多いので注意したい。それでも親は子どもが塾で勉強していると思い込んでいるのだ。実に無駄な話である。当然ながらこのような状況では学力は上がらず、むしろ下がるのである。
■良い塾は宿題を出し、親に報告を欠かさない
このように「なんとなく組」は、親も子どもも互いの体裁を整えるために「塾通い」の形をとりつくろっているに過ぎない。いわばアリバイ作りである。私はこの場合きちんと塾をチェックしない親に問題があると思っている。
ではそのきちんとした塾をどうやって見極めればよいのか。これは塾側の姿勢を問うことになる。いくつかのポイントがあるが、誰でも簡単に調べられる目安を一つあげたい。
その目安とは「宿題を出すかどうか」だ。崩壊状態の塾は宿題も出さないところが多い。だから宿題を出さない塾はやめることだ。
次に宿題を出すにしてもその生徒の宿題をきちんとチェックしているかがポイントになる。実は講師にとって一番大変なのが宿題チェックである。宿題を出しても全員が誠実にやるとは限らない。生徒によっては全くやらなかったり、やってもいいかげんだったり、ごまかしていたりといろいろだ。それを講師は素早く見抜いて、適切に指導しなければならない。改めない子に対してはゴマカシ癖がつかないうちに居残りを命じてやり直しをさせるなど罰則を与えることも必要なのだ。
授業のテクニックよりもこのように勉強習慣をつけさせるための地道な指導の方が講師にとって難しくエネルギーがいるのだが、生徒に愛情をもっていれば当然避けて通れない仕事なのである。
だから塾がたとえ宿題を課していても、このようなアフターフォローがなければ意味はない。大手塾などは、宿題は出すがきちんとチェックしないところが多い。特に1クラス30人以上もつめこんでいる塾は物理的に全員のチェックは無理だ。生徒も最初はこういう塾でも緊張しているから宿題があればやって行く。ところがやってもやらなくても何のチェックもないと、生徒の方もばかばかしくなりやって行かなくなってしまう。せっかくやってきても何の見返りもないのなら、安易に流れてしまうのは仕方ないことだ。こういう塾はアリバイで宿題を出しているだけだ。生徒のせいにはできない。
ところで塾が宿題を出すのは言うまでもなく生徒をいじめるためではない。何よりも「授業の定着」が目的なのである。私の経験から言っても、生徒は授業を聞いただけでわかったつもりになってしまう。皮肉なことに先生の授業が上手でわかりやすければなおさら、生徒は聞くだけで満足してしまうのだ。そして次に当てると、忘れていたり問題が解けなかったりなど、教えたことが身についていない。
これは塾講師に限らず生徒を教えたことがあるなら誰でも痛感することと思う。授業で習ったところを確実にするためには、宿題を出すのが一番確かだ。従って学習機関で宿題を出さないところは、生徒に学力をつける気のないところである。
だから塾が宿題を出すからといって安心するのではなく、フォローをしているかも見極めなければならない。だがこれも簡単にチェックできる。フォローをしている塾は親にも子どもの様子を報告するからだ。宿題忘れやいいかげんな態度の生徒に対してはそのことを電話なり面談などで連絡してくれるはずだ。こちらから訊かなければ教えてくれなかったり、宿題の提出状況を答えられない塾は当然失格である。できれば提出状況を文書で定期的に報告する塾を選びたい。
教育者としての責任感と誇りをもっている塾や講師なら生徒の学習態度は最も気にかかる問題で、放置することは教育者の良心が許さない。生徒の学習意欲をはかるバロメーターは宿題のやり方にこそ表われることを知っているからである。
■目先の点数より将来を見据えた学力をつける
ところで、子どもを塾に通わせる親は塾に何を期待しているのだろうか。もちろん成績を上げるため、入試に合格するため、あるいは勉強習慣を身につけるためなどであろう。いずれにしても学力の向上が目的であるに違いない。
しかしそれなら何によって「学力」が身に付いたか判断できるのだろう。ふつうは学校の成績やテストの点数などで測るのではないか。だが、学校の成績やテストの点が必ずしも「学力の中味」を反映していないとしたらどうだろうか。「テストの点だけでは本当の学力は分からない」などという一般論を言いたいのではない。
実はこの十数年、学力の定義そのものが変わってきているのだがその背景には社会的要請がある。この話は長い説明が必要だが、思い切って要約すると「覚えれば良い」から「答えに至る考え方」重視の転換である。
一般に学校や塾のテストは知識の量を問うものが中心だ。定期テストなどは成績評価を楽に行うためどうしても○×式になりやすい。だが丸暗記の知識はテストが終わると忘れやすく、また応用がきかない。要するに「考える力」が育ちにくい。
このことに社会−企業や大学または研究機関−のほうが危機感を既に抱いていて、もはや知識丸暗記型の人間より柔軟な考え、発想を持つ人の養成を急務と考えている。
そしてそのことが実は近年の入試問題の変化を急速に促している。たとえば都立高校の独自問題や千葉県立高の2回入試制などは、明らかに受験者の知識の量ではなく考え方を問うためのものである。同じように国公立大学、レベルの高い私立高校なども近年の入試問題は記述論述主体、すなわち「考える力」「表現する力」を試すものに変わっている。
だから今の時代子どもたちが身につけるべき学力は従来の暗記中心、つめこみ型の学力ではなく、幅広い興味関心と柔軟な思考力そして自分の考えを要領よく的確に表現する能力こそが求められているのだ。
少し手前ミソだが、クセジュは創立の時から「答えに至るプロセス重視」「思考力重視」をスローガンに公式や定理の丸暗記ではなく、むしろ公式や定理の導き出し方を指導してきたし、設問は常に「記述式で答える」ことを生徒に求めてきた。
親(生徒も)はとかく学校の定期テストや通知表を気にしがちだし、多くの塾も相変わらず覚え込む勉強を強要しているが、そのような「目先の勉強」は間近の高校入試や大学入試にも通用しないし社会に出てからも困ることになるだろう。
真に子どもの将来を考えるなら、目先の点数より長期的な展望に立った「本物の学力」をつけることを教育方針に揚げる塾を選ぶべきだと思う。
第二章塾の宣伝材料「合格実績」のカラクリを見抜く法
2010年8月18日更新■カラクリ@ 合格者数は実数ではない
塾を選ぶとき、多くの人は「合格実績」を有力な判断材料にすると思う。それは無理もないことで、いくら「めんどう見」だとか「少人数」だとかの宣伝文句を並べられても本当のところがわからない以上、また塾へ通わせる動機が我が子の「合格」にある以上、とりあえず「合格実績」を見て安心するのは自然だからである。
実際、進学塾を標榜するところはどこも合格者の数を競っている。合格者の数が多ければ多いほど、塾の格も上だと当の塾自体が考えているのである。
しかし合格実績は本当に塾えらびの基準になり、信用に値する判断材料なのだろうか。
私の答えは「ノー」である。その理由として私は以下の3つをあげたい。とりあえずこの章では@・Aについて話し、Bについては章を改めて述べる。
@合格者数を水増ししたり、1人で複数校合格した場合など実数を反映していない
A合格者数が多くても合格率は低いケースも多い
B合格実績と塾が行う教育サービスのレベルは直接的には無関係である
まず@について。信じられないことに、合格者数を水増しする塾は確実に存在している。かつて千葉県を中心に生徒数最大規模を誇った大手塾は、堂々と合格者数を水増しして発表していた。合格者の氏名を載せる場合と人数のみ載せる場合に分け、合格者の人数のみを載せる場合、たとえば実際は20人しか受かっていなくても30人などと書くのである。
氏名を載せる場合でも講習だけ、テストだけ受けただけの生徒を塾生として合格実績に加えることまでしていたのだ。塾生に友人を連れてこさせ、頻繁に行われる志望校判定テストなどを受けさせる。そして後日その子が合格すると勝手に名前を載せるという手口だ。ここまでくるとサギまがいである。この大手塾の行状は業界では知らぬ者のない、有名な実話である。
悪評がたたってこの塾は急速に衰退したが、他にも同じような塾はある。
たとえばどこの塾もそうだが、1人で複数校に合格した場合、その都度合格人数にカウントするため合格者数は実際の在籍生徒数より増えてしまう。これは厳密に言って水増しではないが、紛らわしいことに違いない。これだと人数の多い塾ほど「見かけ上の合格者数」は膨大になる。たとえば生徒数100人の塾で1人平均3校合格した場合、合格実績は合計300人だが5千人の塾だとたちまち1万5千となってしまう。
またこれとは少し違うが、より悪質な手口としていくつかの高校に合格した人数を合併して発表するものがある。
都内に本部を置く有名大附属に強いことを誇る塾では、早慶系何百人という具合で発表する。これだと実数は一体何人なのか全く謎である。
このように塾の発表する合格者数は「水増し」や「見かけ上の人数」を割り引いて考えなくてはならず、正確な実数を反映したものではない。
■カラクリA 大手塾は不合格者が多いので教室ごとの合格率を調べよう
合格実績があてにならない第二の理由は、合格者数と合格率の違いである。ここで強調したいのは、塾がチラシなどで宣伝する「実績」とはあくまで全教室合わせた「見かけ上の合格者数」であり、教室ごとのあるいは受験校ごとの合格率ではないということだ。
ところが生徒や親にとって必要なのは、教室ごとの合格者の実数や合格率の方である。なぜならそれらがその塾の本当の実力を示しているからである。
従って子どもを合格させたければ、合格率を調べなければならない。それも教室ごとのだ。同じ塾でも教室によってぜんぜん違うことが少なくない。
特に気をつけなければならないのは大手塾のチラシである。入試シーズンともなると、宣伝チラシに合格者名がズラリと並んでいる。多くの人は「こんなに大勢受かっているのか」という感想をもつだろう。すると、たくさん受かっている→皆受かっている→自分も受かる、という錯覚をもってしまう。
なぜこれが錯覚かというと、第一にこれは全教室の合算人数であり、自分の通う教室の実状ではないということ。第二に当たり前だが大手塾は在籍している生徒数がケタ外れに多いが故に不合格者もケタ外れなのだが、チラシ等からはこの事実は隠ぺいされているからだ。
首都圏に分教室を多数展開する大手チェーン塾などは生徒数が数千人から数万人という巨大さである。当然これだけの人数がいれば合格者も多いが、「不合格者」数もケタ外れなのだ。
たとえばある大手塾は年にもよるが、合格率は50%を切っている。受験者の半数かそれ以上が落ちている計算になる。
県立高校の倍率を考えると「異常な受からなさ」である。まして私立校となると不合格率はさらに高くなる。私は仕事柄直接これらの「真実」を聞く機会が多い。
だからこのような大手塾よりむしろ教室数が1つか2つの小規模塾や10教室以下の中規模塾の方が合格率は断然高いと言える。実際こういう塾の中には、中3生が100〜150人しかいないのに、地元の県立トップ校に30人以上をコンスタントに合格させているところもある。同じ地区で大手塾は約5千人中120〜130人である。
どちらが合格させる塾であるか一目瞭然であろう。合格率で比べるなら大手塾は相当に不利である。
どうして大手塾の方が合格率が悪いのか。理由はいろいろだが、授業法やテキスト、指導方針などがあまりにマニュアル化され、どの教室でも同じテキスト、同じ教え方をしてなるべく講師の独自性を抑える。だから教室個々の特徴や生徒の個性に細かく対応できない。というより対応しない仕組みになっている。
というのは、あまりに細かく対応すると教室間で差がつき、さらに膨大な生徒のタイプ別に指導方針を考え実践するとなるとかなりの経費が発生し、経営効率が悪化するのである。
そもそも大手塾というのは経営効率を最優先し、すべてを徹底的にマニュアル化したからこそ大手塾になれたのである。その弊害として図体が大きくなり、何でも本部で一括管理する官僚化が進み、熱血講師や個別対応の存在を許さない構造になってしまったのだ。
それに反して小中規模塾は、地域密着型で近隣の高校入試の出題傾向や学校の特徴などをよく研究し、「こだわり」をもってじっくりていねいに生徒を指導している。こういう塾では講師が休日返上で補習をしたり、時間外労働もいとわず熱心に生徒を見ることが多い。結果経営効率はよくないが、合格率は高くなる。
無論、小中規模塾の全てが高い合格率をあげているわけではない。結局入試に強い塾かどうかはその教室ごとの合格率を見なくてはわからないのだ。
従って我が子を合格率の高い塾に行かせたいのであれば、親が実際に塾へ足を運び合格率を調べるべきである。特に大手の場合「何人受かったか」ではなく「何人受けた結果の合格者か」をしつこく問いただしてほしい。もし教室責任者が塾全体の受験者を把握していないとしても、最低自分の教室についてだけでも受験者と合格者を言えるはずである。教室責任者が明確に答えられないなら、その塾は敬遠した方がよい。
さらにその塾が小中規模塾なら絶対に合格率を聞き出さなければならない。受験者の数がそれ程多くないので、教室長レベルならほぼ全員の合格・不合格を把握しているはずだ。もし答えられなければ「水増し」をしているか、「真実」を公表できないほど結果がひどいと見て間違いない。
いずれにせよチラシの合格者数だけ見て判断を下すのは大いに危険であると言わざるを得ない。
第三章授業料 高いか安いかは毎月の額だけでは判断できない
■まず1時間あたりの単価と補習の回数を調べよう
塾の授業料は千差万別である。小学生の場合、安いところで月額3千円〜5千円、中学受験専門塾になると2、3万〜10万円も取るところもある。
ここでは高校受験を目指す中学生に話をしぼろう。中学生の場合でもやはり塾によって相当開きがある。安いところで月額7、8千円〜1万5千円くらい。高いところで2万〜5万円くらいであろう。ただここで注意したいのは月々の授業料だけ見て、高い安いを判定できないということである。
わかりやすいのは月あたりの総授業時間数で見るやり方である。たとえば週2日英数国3教科で1教科50分なら、50分×3(教科)×2(週2日)×4(週)=1200分。つまり月あたり授業時間は1200分(20時間)である。授業料がもし2万5千円なら、1時間1250円払っている計算になる。
これにもし理社を加えて5教科(理社は週1日50分×2とする)で授業料が3万円だとすると、1時間あたりの単位は1127円となり、少し安くなる。
つまりこの塾は3教科なら時間1250円、5教科なら1127円の授業料を取っていることになる。ところが同じ2万5千円の授業料でも授業時間が1教科10分少ない40分だったりすると、たちまち1時間あたり1562円にはね上がってしまう。先の塾よりかなり割高である。逆に中学受験専門塾のように週4日以上月25〜30時間もやるところだと、4、5万円でも高いとは言えない。
さらに塾によっては無料の補習授業などを行うところと、やらないかやるとしても有料の場合があるのでそれを考慮する必要がある。一見毎月の授業料が高くても、頻繁に補習や時間外の個別指導をやる塾は、授業料はかえって割安なのだ。
良心的な塾は補習をシステムの一部に組み入れていることが多い。というのも新入塾生などが入ったとき塾の進度に合わせるため個別に補講しなくてはならないからだ。細かくクラス分けしている場合も、クラス移動する際、生徒によっては進度を調整するための個別補習の必要がある。
良心的な塾ほどこのような時間外の補習を行っている。たとえ無料であっても、補習分の人件費は塾が負担しなければならない。当然赤字である。しかしこのような塾はもともと赤字覚悟で補習をやっている。
だから頻繁に無料補習をやるようなら、授業料は額面よりもかえって割安になるはずだ。逆に言えば、一見安いようだが正規の授業時間しかめんどうを見ないというところは、かえって割高なのである。
■本当に生徒のことを考えたら授業料はあまり安くできない
このように塾の授業料は安ければよいわけではない。一番大きな理由は安い授業料では優秀な講師を確保できないという点にある。
塾の経費で最大のものは人件費である。人件費比率が低い塾は優秀な講師は少ない。優秀な講師の基準は授業技術がしっかりしていること、熱心でリーダーシップがあり、生徒や保護者から信頼される人柄であることが条件だ。
塾はどこも優秀な講師の確保に「やっき」になっている。魅力ある講師の少ない塾はすぐに生徒に去られ、衰退していくのである。
評判のよい塾は講師のレベルアップのための研修を行うので、その経費もかかる。いわゆる「めんどう見」をよくするために授業時間外にも個別指導や質問などの時間外労働を増やすからだ。このようなサービスを徹底するとどうなるだろう。
仮に生徒数300人の中規模塾で授業料が1人平均3万円であれば、月々の授業料収入は900万となる。授業料3万はやや高い印象があるが、今言ったような万全の体制であれば、講師30人(アルバイト20人、専任10人として)を投入する必要がある。時間外労働・休日出勤を含めフル稼働すると、人件費は500万前後に達する計算になる。これに家賃、光熱費、電話、コピー、印刷代など固定費を加えれば収支はトントンか下手すると赤字になる。「まさか赤字なんて…」と思うかも知れないが、まともにやると月次決算はけっこう赤字になるのである。
従って講師に払う給与額が低いところでは、授業料が安くても質の高いサービスは受けられないと覚悟すべきである。1対1や1対2、3の個別指導塾などが時給1000円台や1000円以下で講師を募集しているのをよく見かけるが、いくら1対1といっても優秀な講師は集まるはずはなく、これでは生徒の力を伸ばすことは期待できない。
なぜなら、教育で1番難しいのは勉強を教えることではなく、子どもの力を引き出しやる気を起こさせることだからだ。
「動機づけ」は相手が子どもに限らず、人間関係においてもっとも高度な技である。動機づけられる方は、動機づけする相手の知識、教養から情熱、誠意、愛情までも感じられなければ動かない。「子どもが好きだから」というようなレベルでは到底通用しない。
「人材」に投資している塾ならば授業料月額3万円前後なら今まで述べてきた理由から決して高いとは言えない。
■もうけ主義の塾はここで見分けよう
授業料が高い塾がもうけているとは限らず、授業料の安いところがもうけていないとは必ずしも言えない。
しかし私の眼から見ても不当に高いと思われる塾はある。1クラス30人以上もつめこむ大手チェーン塾と諸費用1年分を前払いさせる塾である。
1クラス30人の塾は同じ授業料であっても、単純計算で1クラス15〜16人の塾の2倍の利益を上げている。親・生徒の側からすればこれは同じ金額で2分の1かそれ以下のサービスしか受けられないことになる。
塾講師を経験した者なら誰でも知っていることだが、真剣に生徒の「めんどう」を見ようと思ったらクラス人数は17〜18人が限度である。
通常、講師は2〜3クラスを担当している。たとえ1クラス15人でも、30〜45人の生徒を受けもっていることになる。これら生徒一人ひとりの性格、不得意分野、家での学習状況を把握し、さらに毎回の宿題や課題のチェックを行わなければならない。しかもこれらは「基礎的データ」に過ぎない。
学力を伸ばすためには各々の生徒の対処法や学習計画を作成する必要がある。これに加えて、まじめな塾なら親へ報告するため各講師にこれらの基礎データや学習プログラムを口頭か文書で提出させるだろう。1人の講師が授業外にこれだけの職務を全うしようとすれば、1クラス30人などもてるはずがない。つまり30人以上つめこんでいる塾は、講師の職務が「授業だけ」なのである。
もう1つ、授業料以外の諸費用1年分を全納させる塾も気をつけるべきだ。確かにテキスト代やテスト費、光熱費、消費税は塾にとって徴収すべきものである。しかしそれは実費でなければならないと私は思う。
チェーン展開している大規模塾(個別指導塾も含む)は自前でテキストやテストを印刷しているため、単価は相当割安である。従ってむしろ授業料外諸費はあまり取る必要がないはずである。年間せいぜい5万円以内で済むはずだ。それなのに5万〜10万以上徴収するのは不当であり、特に年間分を全納させて退会するとき返還に応じないのは、商道徳にも背く行為である。
学習塾業界で売り上げベストテンは公文式を除けば、これらチェーン展開する個別指導塾と1クラス30人以上の大手塾であるという事実は、いかにこれらの塾の利益率(もうけ)が高いかを示している。
第四章本当にめんどう見の良い塾は「めんどう見」を売りにしない
2010年8月27日更新■「めんどう見」という言葉は商品カタログに過ぎない
「商品」がいまひとつ明確でない学習塾業界にとって「めんどう見」は打ち出しやすい商品である。一般的に「めんどう見」を誇大に宣伝する塾はめんどう見が悪く、逆に「めんどう見がよい」と近所でも評判の塾はめんどう見を売りにしない。
理由の一つは、めんどう見の良し悪しはあくまで塾の生徒なり親なりが後で感じる感情だからであって、塾側がめんどうを見てやったと宣伝すべき性質のものではないからだ。
感情であるからには、同じサービスを受けてもAは「良かった」と感じ、Bは「それほどでもなかった」ということがあり得る。たった一言のアドヴァイスでも喜ぶ子がいる反面、繰り返し面談したり相談に乗ったりした割に感謝されないこともある。だがそれは仕方がないこと。相手が判断することであって、こちらから強要するものではないからだ。
さらにもう一つ言うなら、めんどう見の良し悪しは比較相対的なものだということである。全然めんどうを見ない塾から移ってきた生徒の場合など、ちょっとしたことで感激したりする反面、初めからその塾に在籍していた生徒は当り前のことと受取っているケースもある。つまり他の塾を知らないから塾のめんどう見のよさをかえって認識できないのだ。
生徒の学力を上げ入試に合格させるためにあらゆる手を尽くす。結果として生徒、親から感謝される。塾にとって至福の瞬間である。そこに「めんどう見イズム」などという商業主義の入り込む隙間はない。
要するに「めんどう見」のよい塾ほど自らの職務を売りにすることに強い抵抗を覚えるものである。
■夜10時に明かりが消える塾はめんどう見が悪い
たまたま受けもった先生が親切だったという程度なら、それはよい先生に当たったというだけで、その塾の功績ではない。本当のめんどう見はそのような個人レベルを超えた、塾の教育方針そのものから導き出されるものであり、システム化されていなければならない。
めんどう見に定評のある数少ない塾を調べた結果、共通点をあげると、
@生徒や親と良いコミュニケーションをとる
Aボランティア精神があり、正規の授業外に工夫を凝らしたイベントを行っている
B補習、特別講座がタイミングよく行われる
大体この3点が効果的に組み合わさって始めて「めんどう見」が実感として認知されると見てよい。一つでも欠けると、本当にめんどう見のよい塾とは言えない。
まず@であるが、先生と生徒、塾と親、講師同士、経営者と職員各々のコミュニケーションが円滑でないと生徒に対するサービスの質も悪くなる。
コミュニケーションというのは一方通行ではない。たとえば先生が「しっかりやれよ」とか「宿題忘れるなよ」と生徒に声をかけるだけではコミュニケーションが成り立っているとは言えない。こういう言葉がダメだというのではなく、言葉をかけるにしても講師がその生徒の背景的情報─授業態度、得意・不得意、親の性格、家庭状況、学校や部活での立場等々─に無知なまま声をかけても、生徒からすれば単に「説教」されているとしか感じられない。
この背景的情報を得るためには講師間のコミュニケーションが欠かせないため、日頃から講師が生徒の情報を日常的に交換できる環境がシステムとして整っていなくてはならない。
コミュニケーション技術に優れている塾を見分けるには、授業の直前か直後に塾を訪問してみるとよい。講師が廊下に出て生徒たちと自然に談笑しているようなら一応合格。特に帰り際、生徒が講師を取り囲んで質問など活発に行っているなら、その塾は信用できる。講師が誰も生徒と話をしていないようなら要注意。授業以外で講師が生徒と接触したがらない塾はまずダメと見てよい。
同様に授業が終わったら講師がさっさと帰ってしまう塾も失格だ。めんどう見のよい塾は授業終了後、生徒の質問に答えたり宿題忘れの生徒の居残りを手伝ったり、さらに情報交換のためのミーティング、反省会などを行う。もしこの日生徒が50人いたのなら、50人分について生徒の理解度や授業態度について話し合う。当然帰りは遅くなる。もし夜の10時か11時で教室の明かりが消えてしまうようなら、その塾はめんどう見のよい塾ではない。
■子どもの知的好奇心をひきだすエ夫をしているか
さて「めんどう見」の基準Aであるが、教育で一番難しいのは勉強を教えることではなく、やる気を起こさせること、すなわち「動機づけ」なのだ。学歴信仰の崩壊や世情の変化によって、「一生懸命勉強する→よい学校に行く→社会的成功、安定した生活」という図式が成り立ちにくい現在、勉強自体の面白さに目覚めさせる方が、今の子どもたちにとって必要である。
たとえば理科の「実験」。実験や観察を通して面白さに気づく場合が多いのだから、塾でもやるべきなのだ。
その他OHPやビデオを使った数学の空間図形、ディベートや読書作文指導など、イベントの効用は広い意味での知的好奇心を刺激することにある。何か一つでも自分にとって興味のもてるものが見つかればそれをきっかけに本格的な勉強に向かうことも可能になるからだ。「イベント学習」は即座に「点に結びつく」ものではないかもしれないが、目先の点数を追って機械的な暗記に走るよりはるかに有効な動機づけなのである。
■補習は適切なタイミングで行ってこそ効果的
補習・補講を頻繁に行う塾は良心的であると前に言ったが、生徒のために本当に必要だからやっているのか、単に塾のアリバイとしてやっているのか区別しなければならない。生徒が授業がわからないと訴えたとしても即座に補習するのではなく、本当に考えた末なのか、単に甘えているだけなのかをまず判断すべきである。
以下の点が補習が行われるタイミングのポイントである。
(1)英語の関係詞、数学の関数など、多くの生徒が授業だけでは消化しきれないことがわかっている分野を学習しているとき
(2)修学旅行や部活等学校の行事で、大量の生徒が塾を欠席した時に進んでしまった分野
(3)新入会生やクラス移動した生徒の進度調整のとき
(4)学校の定期テスト対策を行うとき
(5)中3受験生に対して志望校別の対策を行うとき
(6)それなりに努力しているのに理解が遅い生徒に対して、担当講師が親と相談して行うとき
(7)努力不足の生徒に懲罰的に行うとき
いずれにせよ大切なことは、普段受けもっている講師が教室長や同僚講師と綿密な相談の上、責任をもって補習することであり、決して生徒や親に迎合してアリバイ的に行う性質のものではないということである。
「一応めんどうは見てますよ」というポーズをつくり、実は生徒を閉め出すような塾の手口にひっかかってはいけない。よく「質問室」とか「質問コーナー」などを設けて、さも積極的に生徒の質問に答えているかのような塾があるが、その意図はむしろ生徒に質問させないことにある。大手塾などでは質問を受けつけて遅くまで講師を残すと残業手当や超過勤務手当を払わなければならないので、チューターと称するアルバイト要員や授業をもつには力不足の講師を研修を兼ねて形式的に配置しておくのだ。
何度も言うが「めんどう見」とは塾にとって効率を犠牲にしたところで成立するものだからこそ、生徒や保護者の感情に訴えるものである。
他にも「担任制度」「個別対応」「親身な指導」「カウンセリング」などは「ことば」だけあってその実何も機能していない塾が多い。これらのめんどう見グッズにダマされてはいけない。これらは卒業生に聞けばすぐ分かることだ。
第五章よい塾は優秀な講師が多い!
2010年9月14日更新■優秀な講師は授業技術だけではいけない
評判のよい塾とは例外なく優秀な講師の多い塾である。これについては、生徒や親の側が思う「いい先生」と塾が評価するよい講師の間に多少のズレがあるかもしれない。
一般に「よい先生」のイメージは、授業がうまく魅力的で、生徒の相談にも親身に応じてくれる温かい人柄の持ち主であろう。だがこれは当たり前であり、塾ではさらに強いリーダーシップが要求される。「結果」を出さなければならない塾において、多数の生徒を「成績アップ」「入試合格」という具体的な目標に向けて引っぱっていくには、勉強したくないという生徒の意思を上回る強力な指導力と個性がなくてはならないからだ。
塾側が評価する優秀な講師の条件は二つある。教科指導力と管理能力。いずれにも共通するのはリーダーシップである。
教科指導力は第一に、担当する教科に対する興味関心、知識の広さ深さが要求される。しかし、実情は違う。私は学校教師の経験もあるが、自分の教える教科に本当の意味で関心をもっている同僚はめったにいなかった。
多くの塾講師は入試問題の解答解説には関心をもっても、学問的興味までもつ者は少ない。講師が強い興味関心をもっていないでどうして生徒に勉強意欲をもたせることができよう。
誠実な塾は教科会などで技術的研究だけでなく、自らが担当する教科の最新学問研究の情報について議論したり、生徒が興味をもちやすい分野―たとえば幾何の歴史やコンピュータグラフィックを使っての図形や関数─の研究を怠らない。また授業のシュミレーションなどをやってお互いに研さんする。教え方や解説法というテクニクルな力だけでは生徒のモチベーションを向上させることはできない。
もう一つの条件としての管理能力とは、生徒をがんじがらめにすることとは逆である。勉強から逃げようとする生徒に対して、勉強から逃がさず一定の目標に向けて、タイミングよくモチベーションを与えていく地道な指導力である。たとえば生徒というのは概ね勉強に対して受け身である。やる気のない生徒に対しては「俺もそうだったけど…」と一応共感することで心理的一体感をつくることも必要だ。そしてここぞというタイミングで「勉強」の道に連れ戻す。このタイミングを誤ると一気に「更生」への道が遠のいてしまうこともある。
また講師は生徒に教えればよいというものではない。質問に来た生徒に答えを教えてしまう講師がいるが、時にそれは危険である。受験時など1人の講師の前に10人くらいの生徒がノートやテキストを抱えてズラリと並ぶ光景は圧巻だが、問題はそういうときの講師の姿勢である。
「こうやって解くんだよ」と教えることは簡単だ(何しろ後ろにも大勢ひかえている)が、この生徒が一体どこまで理解していてどこからが分かっていないのかを瞬時に把握し、「もう一度、直角三角形の合同条件を思い出してみろ」とか「不定詞の形容詞的用法を確認してごらん」とヒントを与えることの方が大切なのだ。生徒の理解状況や勉強姿勢に応じてヒントを小出しにする先生の方が優れているのだ(実際ヒントしか与えないと、何度も訊きに来るので講師の労力は大きいのだが)。ところが考えたくない生徒には、答えを教えてくれる先生の方がありがたかったりする。答えを言ってくれる先生の方が、生徒や親にとって「親切ないい先生」と誤解されることも多い。
本当の親切は相手に迎合することではない。「目先の点数を上げる」ことよりも、いかに長期的な力─将来に渡って自信となるような─をつけられるかを常に考え実践するのがよい講師である。
■アルバイト講師が多いからダメとはいえない
「アルバイトの先生は多いのですか?」ときかれることがある。「アルバイト講師=頼りない、責任感に欠ける」、「専任講師=ベテラン、教える技術が優秀」という漠然とした思い込みがあるのだろう。確かに全く根拠のない話ではないが、アルバイト(主に学生)でも優秀な講師は優秀であり、専任でもダメな講師はダメなのだ。塾講師には優秀な講師か優秀でない講師かの2種類しかいないのである。
次に話すのは私の失敗談である。
塾をスタートさせてからしばらくの間は、アルバイトの学生講師を多く使っていた。テキストやテストも手作りで、生徒が帰った後、ああだこうだと言いながら深夜まで皆で作業した。授業のやり方や宿題の出し方をめぐって明け方まで議論したり、時にはつかみ合いに至ることもあったが、私も若く彼らも若かったから苦労だとは思わず、むしろ独特の活気が支配していた。
そのうち「学生」でありながら私に代わって保護者と個人面談をこなしたりする者まで出はじめた。保護者や生徒も彼らを信頼し、指名して個人的相談を持ちかけるようになった。
彼らの献身的努力のかいもあって塾の評判も上がり、順調に生徒も増えていったのである。そうなると講師を増やさざるを得ない。意を決して専任社員を雇い入れた。ところがこれが失敗であった。
彼らはいずれも一流大学卒の秀才である。授業もソツなくこなし、テキスト作りも嫌がらない。但し「職務」として決められた範囲から出ることもなかった。だが問題はここにあるのではない。彼らには共通の重大な欠陥があった。
成績が伸びない、宿題をやってこない、やる気がない原因を全て生徒が悪いからだと考えてしまうのである。確かに成績が悪いのは本人が勉強しないからだ。しかしやる気のない生徒に様々な工夫をこらして「やる気」を出させるのが講師の使命だという自覚が彼らには欠けていた。「だめですよ、やる気ないんだから」と切り捨てたところで何の解決にもならない。
色々話し合ったりもしたが、結局改まらない。そのうち生徒や保護者からも不満の声がきこえてきた。散々罵倒され怒って塾を辞めた生徒もいた。
その時この窮状を救ってくれたのも、アルバイト講師だった。当てにならない専任より、再びアルバイト講師たちと前向きな生徒指導について語り合うことにした。こうした「改革」が効を奏し、また昔の活気が塾に戻った。この「改革の嵐」の過程で、専任講師たちは孤立しやがて相次いで教室を去っていった。
この経験から私は、意欲のない専任講師より、優秀なアルバイト講師の方がはるかに良いことを思い知らされた。ただ辞めていった専任講師の名誉のためにつけ加えると、彼らは塾講師として全く無能だったのではない。彼らは学校秀才だったので、宿題などやるべきことをやれと言われたにも関わらず平気でやってこない生徒がどうしても理解できなかったのだ。
授業をこなすだけでは終わらない。本当は生徒に意欲をもたせることこそ講師としての醍醐味なのだという積極的な気持ち、つまり情熱なり使命感が欠けていたのだ。
以上の話から私は、塾えらびの基準として単にアルバイトより専任が多いから安心だという考えは安易だと思うのだ。
ある程度以上の規模になると当然専任講師は(講師に限らず事務職も)必要になる。その目安はだいたい生徒数300人ぐらいだろう。これより多い生徒数を擁していながらアルバイトばかりというのは確かに不安だ。経営者の中には安く雇えていつでもクビの切れるアルバイトを多く抱えることで、人件費を押さえようとする者もいる。しょっちゅう講師が辞めて「出はいりの多いところ」という評判がない塾かどうかチェックしたい。
END





